itamame24のブログ

よいときも、そうでないときも、おなじ心で

藤井聡太四段28連勝はもはや恐怖。その強さは「才能」か「努力」か

藤井聡太四段がなんと28連勝。ただの28連勝でも奇跡に近い偉業であるのに、それをデビューと同時に成し遂げ、さらに14歳という若さで達成した。

なぜこのようなことが可能なのかを考えた。

14歳という若さに恐怖を覚える

藤井聡太四段は14歳。つまり、人生経験はたった14年間しかない。1年間で人間が学習できる限界を考えると、もはやこれは不可能なことに思える。

つまり、圧倒的に時間が足りないのではないか、ということだ。ベテランなんて、いったい何年間将棋を研究しているのか?

若年層が活躍することは、スポーツ界でもよくある。スポーツの世界では、体が完成していない中学生くらいで成績を出すことがある。

一方、30歳くらいでベテランの域に入りつつあるにもかかわらず、鳴かず飛ばずの状況に苦しみ続ける人もいる。中学生でありながらバッサバッサと大人をなぎ倒す少年が現れると、もはや対称的だ。

藤井聡太四段の活躍は本当に凄いことだし、ファンの一人として応援している。が、それと同時に、同じく競争社会を歩む一人として、あまりに凄すぎて恐怖に似た感情を抱く。いったい、どんな努力をしたのかと。

藤井聡太四段を見ていると、なにが自分と違うのかと、真剣に考えてしまう。1つの道をそんなに早く攻略する方法があるなら、教えて欲しいと感じるのは僕だけではないはずだ。

「天才」で片付けたくない

藤井聡太四段の強さは天才的だ。けれども、「天才」で片付けたくないし、片付けるのは間違っているのではないかと思う。

1つの事実として、若くから学習を始めたほう有利といわれる。しかし、これも同じように、「若くから始めたから強い」で片付けてはいけないと思う(藤井聡太四段がいくつから将棋を始めたかは知らない)。

これは感情的にそうであるだけでなく、実際にそうなのではないか。結論として僕が考えたのは、超一流と呼ばれる人々も、やっぱり人間だということだ。

勝負の世界では、その勝者を「完全無欠」「全知全能」と賞賛しがちだ。けれども、いくら専門分野とはいえ、完全無欠なんてありえない。

実際にはスキだらけで、人間の本来の生まれ持ったポテンシャルと比較すれば全然完璧ではないのではないか?よくよく観察すると、そんなふうに思う。

100M走の世界記録はもう破れないとされたこともある。その走りが、完全無欠だと考えられているからだ。けど、実際はそんなことはなかった。

そんなことで、僕はやっぱり、藤井聡太四段は他の棋士と同じくらいに、もしくはそれ以上に将棋に対して労力(時間×質)を費やしてきたからこそ成績が出ていると考える。

それができるのは、他の棋士たちもあくまで人間で、将棋(の努力)においても完全無欠とはいえないからではないか?

規格外の努力で結果は出せる

僕は、第一線で活躍している人を「大したことはない」というつもりはない。けど、神様なんかじゃなく、あくまで人間なんだといいたいだけだ。

これは将棋界だけの話ではない。人間が行うことすべて、そうなんじゃないかと思う。

人間である以上、「ここまでが妥当かな」という努力の一線を引いている。その一線は、本来の限界よりもやや手前だ。

そんな中、藤井聡太四段は、努力の限界の一線を他の棋士より遠くに引いたのではないか。

たとえば、「高い質を保った学習時間」をどの程度確保したかは影響が大きいと感じる。「5時間」という同じ時間は平等ではなく、質を保てるかどうかの差が大きい。

もし質を保ちつつ、余剰時間をすべてある1つの分野につぎ込むことができれば、比較的に簡単に一流に近いところまでいけるのではないかと感じた。もちろん、それ自体がとても難しいことだが。

そのように考えたとき、藤井聡太四段に一層の畏敬の念を抱くとともに、自分もさらに努力しなければいけないと感じる。

藤井聡太くんはすごいねえ」なんて、少し上から目線になる前に、その背中を、その態度を必死に追わなければならないと思った。

僕は、「努力」に比べて「才能」が不要だとは思わない。どちらも備わっていることでしか成し遂げられないことはある。

けれども、みんなが思っているよりは、他人の才能にビビらなくてもいいんじゃないか。個人的には、そんな風に考えてみたいところだ。